5
「あ、山口さん。」
廊下を歩いていると、前に見知った人の姿を見つけた。
声を掛ければ彼は振り返り、
「おや、さん。」
にこりと柔和な笑みが返ってきた。
彼は片手に灯りを、もう片方に薬箱を下げている。
「‥‥こんな時間に診察、ですか?」
問いかけると彼はええと頷いた。
外は真っ暗で、隊士のほとんども床についている。
ほとんど真夜中という時間帯だというのにまだ働いているらしい。
「お腹を壊して寝込んでいる隊士さんがいるらしくて‥‥」
今から彼の元へと行くのだと彼は言った。
「お世話を掛けます。」
は申し訳ないと頭を下げた。
「いやいや、これも私の仕事ですよ。」
気にしないでくださいと、邪気のない笑顔で言われ、はつられて笑みを浮かべた。
「なら、私もお手伝いしますよ。」
言ってひょいと薬箱を攫うと山口は目を丸くした。
薬やらなんやらが入っている木箱は、思ったよりも重たい。
「いや‥‥君に手伝って貰うわけには‥‥」
彼女が忙しい、というのは彼も知っているらしい。
確かに昼も夜もなく走り回っているのは確かだが、
「これくらいは平気です。」
は言った。
「それに、両手が塞がっているといざというときに対処できないでしょ?」
ここには荒くれ者ばかりがいるのだからと意地悪く言われ、瞠目する。
それから、
「そうでしたね‥‥」
苦笑を浮かべ、それならばお願いしようかなと彼はすまなさそうに言って、二人は並んで歩き出した。
きし、きし、と床が軋む音だけが響いている。
廊下はひっそりと静まりかえっていて、時折、誰かの鼾だろうか‥‥それが微かに聞こえる気がした。
「さんはいつもこの時間まで起きているんですか?」
廊下を並んで歩きながら山口が少しだけ声を潜めて訊ねる。
「まあ、大体は‥‥」
「忙しいんですね‥‥」
しみじみと呟かれはあははと笑った。
「私がやらないと、無理をする人がいるので‥‥」
「それは土方さん?」
は答えず、ひょいと肩を竦めた。
「でもそれじゃ、さんにも負担が掛かるのじゃないでしょうか?」
そう言うと、はそうですけどと言って、笑った。
「私の方が若いので‥‥大丈夫です。」
当人が聞いたら怒るだろう。
そこまで耄碌してねえよとかなんとか‥‥
そんな姿を思い浮かべては小さく笑った。
笑った瞬間、山口がどうかしたのかい?と訊ねてくる。
はいえと首を振って、今度はこちらが訊ねてみた。
「山口さんこそ大丈夫です?」
ここ最近、戦いが激化しているせいで、怪我人が絶えない。
今日のように夜中まで走り回るのは彼も同じである。
大変といえば双方同じであるが、は武人、身体を鍛えている。
一方、山口は商家の人間。
体力は、彼女ほどないだろう。
「大丈夫ですよ。」
山口はやはり笑った。
「体力はあまりあるとは言えないけど‥‥色んな人が手伝ってくれますから。」
今日の昼は斎藤さんが手伝ってくれたのだと言う。
その前は、島田が。
多分斎藤あたりは手伝う‥‥というより彼の人となりとやらを探りにきたのだろう。
彼が新政府軍に内通している、というのは考えにくいがあり得ない話ではない。
元もと武人ではない彼らは、義、よりも金を重んじる人間が多い。
金で動くのが商売人、だ。
とはいえ、には隣を歩く彼が悪人とは思えなかった。
これは直感、なのだが、彼には裏も表もない気がする。
なりに探りも入れてみたが、悪い噂は何一つ聞かない。
根っからのいい人‥‥のようだ。
それで商売人としてここまでやっているのだから不思議である。
「それに君も手伝ってくれますし。」
向けられたその笑顔に、不思議な既視感を覚えた。
見覚えがある。
と思った。
笑うと細められる目元。
少し下がった、細いそれ。
穏やかな笑顔。
どこか暢気な印象を与える、穏やかな喋り方。
『』
あ、と思わずは声を上げてしまいそうになった。
彼は、その人に似ていた。
『――源さん。』
失った、優しい人に似ていた。
顔がそっくりというわけではない。
ただ‥‥その柔和な、暖かい感じが似ている気がした。
なんとなく隣にいるとほっとするような‥‥
その優しくて暖かい雰囲気が、似ている。
懐かしさに、思わず、の目元が綻んだ。
「お役に立てるなら、何よりです。」
彼と井上は違うと分かっている。
全く別人だと。
彼はこの世にもういない。
それが分かっていた。
でも、
まるで彼に微笑みかけられたような気がして‥‥
「っ!?」
気がつくとは、井上にかつて向けていたような笑みを浮かべていた。
その笑顔は、彼女が今まで見せたどれとも違った。
優しくて‥‥どこかあどけない表情だった。
自分を我が子のように可愛がってくれた人に向ける、子供らしい笑顔だっただろう。
山口はどきりと、鼓動が一つ跳ねたのに気付いた。
そして何故か見てはいけないものを見てしまった気がして視線をべりと引きはがす。
「‥‥」
並んで歩きながら、時折ちらりと男はを盗み見た。
改めて見ても、は綺麗な顔立ちをしている‥‥と彼は思った。
局長である土方も相当の美男子だが、も負けず劣らず美しい。
だが同じ綺麗、と言っても、はどこか女性らしい柔らかさを持っている気がする。
女性特有の、柔らかさと‥‥仄かな甘さを。
「‥‥そういえば‥‥」
と彼は一人ごちた。
の肩幅を見る。
年齢は知らないけれど、男にしてはその体付きが華奢な気がするのだ。
食が細いのかと思ったがそうじゃない。
根本的に骨の作りが違う。
それに、着物で隠れてはいるが、の身体の線を見ると‥‥なんというか、緩やかな曲線を描いている気がする。
それはまるで‥‥
「女性‥‥」
そう呟いて、まさか、と彼は頭を振った。
そんなはずがあるわけがない。
だって、は新選組の一員だ。
女性が戦えるはずがない。
しかも、大幹部の一人で‥‥すさまじい強さを誇るという。
そんな人がまさか、女性なはず‥‥
そんなはずは――
「山口さん?」
どうしたんですか?と声を掛けられ、彼ははっと我に返った。
その瞬間、自分の足が止まっていた事に気付き、同時に彼女が覗き込んでいる事に驚いた。
ばちりと琥珀の美しい瞳とぶつかって、
「い、いや、なんでもっ」
彼は慌てて視線を逸らし、
「さ、さあ急ぎましょう!」
と彼女を促す。
はとりたてて追求はせず、そうですねと答えてまた二人、並んで歩き出した。
並んで歩きながら、ふいに、
ふわ、
と甘い香りがした。
「‥‥」
香りを追えば、隣を歩くその人にたどり着く。
まるで‥‥花のような、甘い、香りだった。
もう一度とくんと、
鼓動が跳ねたのを男は覚えている。
先ほどよりも小さく、
でも確かに男の中に何かを刻んだ。
それが何かのはじまりだった――
「腹を壊したのはおまえかよー」
が呆れたように口を開く。
その前には布団で横になる藤堂の姿。
うんうん唸る彼の顔色は青い。
どうやら昼間食べた貝にあたったらしい。
因みに同じように寝込んでいる隊士もいる。
彼らも揃って‥‥羅刹隊の人間であった。
山口は手早く彼らの具合を確かめ、薬を処方している。
はそれを見ながら注意深くあたりへ視線を巡らせた。
ついてきて正解だった。
この時間といえば羅刹の行動時間である。
今のところ狂った隊士が出たという話は聞かないが‥‥こんな所に彼一人で来させるわけにはいかない。
なんせ、
「監視役であるおまえがこんな状態でどうすんだよ。」
肝心の彼が動けないのだから。
ぺし、と藤堂の額を叩けば、あいたという声を上げ、彼は涙目でこちらを見あげた。
「オレのせいじゃねーし‥‥」
「貝ごときで腹を下すな、軟弱者。」
「‥‥、オレに対してはちょっとひどくない?」
「平ちゃんがからかいやすいのが悪い。」
にこりと笑顔で言えば、藤堂はオレのせいかよぉと情けない声を漏らし、布団の中で丸まってしまう。
どうやら本当に具合が悪そうだ。
食べ物にあたった、というのと、ここが冷えるのがいけない。
「後で暖かいものでも持ってきてやるから、根性で治せ。」
優しいんだか優しくないんだか分からない発言を口にし、はふと、彼がいないことに気付いた。
「あれ、山南さんは?」
訊ねれば布団の中から声が返った。
「見回りに行ってくるって‥‥」
「一人で?」
いや、というくぐもった声と、中でもぞもぞと動くので首を振ったのだと分かる。
「何人か隊士を連れて出てった‥‥」
顔だけを出して彼は答える。
見回り‥‥ねえ‥‥
は一人ごちた。
そういえば妙だと思う。
ここにいる羅刹隊は全員が全員、腹を壊してうんうん唸っている。
でも、壊さなかった山南や、他の隊士たちは、元気で‥‥見回りに行ったと言う。
元気だからこそ見回りに行ったのだろうが、これは単に運がいい、悪いという問題なのだろうか?
「なあ、平助‥‥」
まさか、仕組まれたものじゃないだろうな?
と、が口にしようとしたその時、
「うわぁ!?」
背後で山口の声が上がった。
「っ!?」
即座に振り返れば、闇の中、ぼんやりと、二つの赤い光が浮かんでいるのが見えた。
ぐるると喉を鳴らし、唸る声は、人のそれとは違って聞こえる。
「い、犬っ!?」
山口は驚きの声を上げた。
「平助!」
「分かってる!」
は短く彼を呼ぶと、藤堂は布団をはね除けて飛び起き、刃を片手に山口の前に出る。
同時に走ったは風のように走り、赤いそれへと刃を一閃させた。
「ぎゃっ!?」
短い悲鳴と浅く斬った感触。
斬りつけられたそれは、慌てて身を翻し走った。
は迷わず後を追いかける。
長い廊下を行き、その奥、太鼓楼まで走った。
雲間から月の明かりがあふれ出し、あたりを照らした。
「‥‥」
自分が追いかけているのはやはり、人であった。
いや、正確には人ではないのかもしれない。
「羅刹。」
じゃり、と顔も知らぬ隊士が振り返り、こちらを見た。
赤い瞳は‥‥狂気に満ち、理性を失った獣のそれをしていた。
口からだらしなく涎を流している。
ああもう、駄目だ。
は静かに息を吐き、刃を構える。
羅刹も同じように‥‥刃を抜いた。
そして、
「がぁああああ!!」
人ではない咆哮を上げて飛びかかってくる。
ギン!!
と一合、刃を合わせる。
立て続けに、二度、三度。
人のそれよりもずっと重たい一撃ではあるが、はいとも簡単に受け止めた。
「っ!?」
が、次の瞬間、全く予期していなかった後方から影が躍り出た。
ちらと視線を向けると、白銀のそれが月光に輝き、
「くそがっ!!」
は吐き捨てると、合わせていた刃を弾いて、身を翻した。
しかし、完全には避けきれず、
ざ――
「っ!」
の腕を浅く、刃が掠めた。
すぐにじり、と鋭い痛みが走り、どくどくと血があふれ出る感触がある。
ふわりと血のにおいが溢れた。
瞬間、目の前に立つ羅刹二人の顔が愉悦に歪んだ。
「‥‥血だ、血のにおいだ‥‥」
きひひと嫌な笑いを一人が浮かべる。
「そいつを寄越せ‥‥寄越せっ」
男が言うが、はついと目を細めた。
狂気を前にして、笑った。
「残念でした。」
は腕の血をべろりと、自分で舐る。
赤い舌が赤い血を舐める様はなんとも妖艶で美しい。
そうして、すぐに琥珀の瞳が、底冷えするような冷たいものへと変わった。
「‥‥こんな傷じゃ私を殺せないよ。」
べっと血を吐き出して二人に翳して見せた腕には、
刃で裂いた痕は無かった。
ただ、
一筋、
線がうっすらと残っているだけで、
「‥‥なっ!?」
驚きに目を見開いた二人に一瞬の隙が生まれる。
それだけで十分だった。
「私も、お前らと同じ‥‥」
は瞳を細めて、楽しげに笑う。
「――化け物だ――」
化け物に相応しい、獰猛な瞳が金色に輝くのを‥‥彼らは最期に、確かに、見た。
――見つけた――
ざあ、と風が男の心の内を現すかのようにざわめく。
いつもなら自我を失わせるだろう血のにおいも‥‥欲しいとは思わなかった。
「‥‥あなたは‥‥」
ガラスの向こうで静かに男は瞳を細める。
それは苦渋の色を浮かべ、だがふわりと漂う血の香りが‥‥
彼女が残した血の香りが、男を包みこんだ瞬間、
大地を汚す赤よりも、もっと暗く深い赤が、
「‥‥人ではないのですね‥‥」
緩やかに、
狂気の色を孕む。
見つけた。
――欲しいものを――

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