はあ、はあ。

 

走るたびに荒い呼吸が唇から零れる。

何度も振り返るのは追っ手を気にしてではなく、後ろをついてくる彼女を心配しての事だった。

 

「大丈夫?」

 

問いかけに、千鶴は唇を引き結んで頷いた。

大丈夫。

と答えたかったが、足が縺れてそれが強がりでしかない事を彼に知らしめてしまった。

沖田はそんな彼女を見て顔を顰めたが、迷惑そうなそれではなかった。

そして自身の背後に庇うと視線を向こうへと向けて刃を抜き去る。

 

まるで見計らったかのように茂みから複数の影が飛び出してきた。

出で立ちからして、新政府軍の兵士だ。

手には鉄砲を持っている。

人数は多いが、幸いな事に彼らが所持している武器は新型の銃ではないようだ。

 

「逃げ切るのは無理、か。

迎え撃つしかなさそうだね。」

いくら逃げてもこれじゃキリがない。

と沖田は言い放つ。

その言葉の後はいつも「君は危ないから隠れてて」と続いた。

少し前ならば千鶴も黙って従っただろうが、今日ばかりは違う。

小太刀を抜き、共に戦う‥‥とでも言うかのように一歩を踏み出す。

「‥‥」

沖田はちらりと視線を向けた。

「足手まといだよ」

と言われるかと思ったが、

「沖田さん一人を戦わせるのは嫌です。」

きっぱりと千鶴は自分の意志を口にした。

役に立つかどうかは分からないが、少しでも良い。

彼の負担を減らしたい。

羅刹となった今、昼日中に動き回るのは苦痛以外のなにものでもない。

千鶴が苦痛を感じるのと同じように、沖田も感じているはずだ。

連日のように追っ手に追いかけられ、夜もろくに休めていない状況だ。

沖田の疲労は‥‥相当なものだろう。

 

「守られるだけなんて‥‥嫌です。」

 

私だって、あなたを守りたい。

 

そう言うかのように、千鶴は敵を見据えて言い放つ。

 

君の腕前で?

 

内心でそんな意地悪な言葉が出たのは‥‥ただ単に照れ隠しのようなものだろう。

沖田は苦笑でそれを誤魔化し、

 

「分かった。」

 

視線を敵へと戻して、にやりと獰猛に笑った。

 

「じゃあ、一緒にいこう。」

「はい!」

 

言うが早いか、男は疾走した。

まるで風のように。

一瞬呆気に取られた敵兵は、

 

ざん、

 

「ぐぁあ!?」

 

味方の一人の腹から血が吹き上がった事で漸く我に返る。

その時には次の一撃が目前に迫っており、

 

「がはっ」

 

銃を構える暇もなく、斬り伏せられる。

 

「あはははは!相手にならないね!」

沖田は楽しげに笑いながら、敵を追い詰めていく。

彼の戦いは、いつ見ても鮮やかだった。

どこかいい加減な性格とは裏腹に、剣筋はとても繊細で‥‥美しかった。

思わず、見惚れてしまうほど。

 

「ひ、ひるむな!撃てっ!!」

慌てて別の敵兵が銃を向け、引き金に手を掛ける。

沖田はすいと目を細めて刃を切り返した。

「はっ!」

が、それを阻止したのは千鶴だ。

敵兵の手を、小太刀が切り裂いていた。

ごり、と手に人の皮膚を斬る嫌な感触がした。

勿論彼女の一撃では敵兵は死に至らなかった。

切り裂かれた腕をもう片方で押さえ、「ひぃ」と情けない悲鳴を上げる。

からんと銃が地面に落ちた。

しかし、

 

殺さなければ‥‥

 

出来れば逃げて欲しかったが、逃がせば増援が来るかも知れない。

情けではないが、人を殺したくないという自分の弱さが‥‥彼‥‥沖田を傷つけるかも知れないと思ったら迷っては

いられなかった。

 

「っ!」

再度小太刀を振り上げる。

絶望に彩られる男の瞳が、千鶴の脳裏に焼き付いた。

 

殺したくない。

 

もう一度、心のどこかで声が聞こえた。

 

「もういいよ、千鶴ちゃん。」

 

ふわ、と衣が踊り、千鶴の前に躍り出る。

大きな影が千鶴と男との間に滑り込んだかと思うと、

 

「ぐぁっ!?」

 

どんっと、鈍い音がした。

呆然と広い背中を見上げる。

その向こうで何が起こったかは分からない。

重たい音がしただけだから。

 

「君は、殺さなくて良い。」

 

沖田は背を向けたまま、そう言った。

 

その時の彼の顔は、見えない。

 

だが、彼は千鶴の弱さを軽蔑するでも、嘲笑するのでもないのは分かっていた。

まるで、その弱さを‥‥

許すような、

愛おしむような、

 

優しい声で、彼は言っていたから。

 

「僕が殺す。」

 

沖田は言った。

 

「君の手は、人殺しなんかをしなくていい。」

 

迷って良い。

例え敵であっても、奪うことを躊躇う、許すことが出来る、優しい心で在り続けていい。

 

「必要ならば僕が人を殺す。」

 

必要ならば自分が手を汚し続けよう。

 

その小さな白い手に、血の赤など似合わない。

その手が他者の血で汚れてしまうのは勿体ない。

 

沖田は本気でそんな事を思った自分がおかしくて‥‥笑った。

 

「貴様ら‥‥新選組の羅刹かっ!」

 

小隊の隊長らしき男が声を上げた。

おや、と沖田は口の端を引き上げ、からかうような表情へと変える。

 

「新選組の羅刹って案外有名なんだね。

隊内でも箝口令が敷かれてたのにさ。」

 

軽い口調で言うけれど、その瞳は真剣なものに変わっていた。

彼らが羅刹の存在を知っている‥‥とすれば、その弱点も知っているはずだ。

 

「銀の銃弾を用意しろ!」

 

事態は最悪の方向へと動き出した。

 

「沖田さん‥‥」

号令に敵兵達が動き出すのを不安げに千鶴は見ている。

「僕の後ろから出ないで。」

沖田は千鶴を庇いながら、また一人一人と敵を屠っていく。

大地に伏した敵兵の数は増えたが、取り囲む敵の数はまだ‥‥多い。

 

早く倒さなければ‥‥

 

二人の胸を焦りが占めた時、

 

――っひゅ!

 

風の唸る音が突然、空気を切り裂いた。

 

その瞬間、

何故か世界が恐ろしく静かになった。

まるで、

世界が終わったかのような、静寂が。

 

 

敵兵も、沖田も、千鶴も、

動いてはいなかった。

止まっていた。

ただもうもうと銃口から上がる白い煙と‥‥

飛び散る赤だけが、

動いていて、

 

‥‥赤?

 

沖田は不思議に思った。

何故あの色が見えるのだろうかと。

自分を苦しめる、あの赤が何故見えるのかと。

 

それが何故、

自らの身体からではなく、

敵の身体から溢れるのだろうかと。

 

そう、思った次の瞬間、

 

「ぐがっ!?なんだこれは!?」

 

世界が音を取り戻す。

こちらに銃口を向けていた敵兵が手から血を流し、絶叫した。

驚きに男を見れば、手に深々と刺さっていたのは手裏剣である。

そしてすぐに、

「ぎゃ!」

「うわっ!!」

次々と敵兵の身体のあちこちにそれが襲いかかってきた。

 

再び風が唸ったかと思うと、黒い影が二人の傍に飛び出してきて、

 

「山崎さん!」

見覚えのあるその人の姿に千鶴は驚きの声を上げる。

やっぱりと言いたげな顔をした沖田は、

「まるで狙ったみたいな登場だね。」

と意地悪く呟いている。

山崎はそんな沖田を見事に無視して、

「逃亡を援護します。」

とすぐさま走り出した。

突然の襲撃でもたついてはいるが、敵兵もすぐに体勢を立て直すだろう。

いくらこちらに一人増援があったとしても、圧倒的に敵の数が多い。

今の内に逃げるのが一番だ。

 

「千鶴ちゃん!」

沖田は刃を鞘に収め、彼女の手を取って走り出す。

「撃てっ!怯まず撃てっ!!」

背後から敵の声と轟音が飛んできた。

 

「っきゃっ!?」

すぐ横で木の幹が抉られ、木屑が降りかかった。

思わず足が竦んで止まってしまうのを、沖田の手がさせない。

そして、

 

「走って!」

 

後ろから聞こえる山崎の力強い声が、

 

「振り返らないで走って!」

 

背中を、押した。

 

確かにした血のにおいに、

ざわりと、羅刹の血が騒いだ。

 

 

 

走って走って、林を抜け、更に走って山を越えた。

もう完全に追っ手の気配を感じなくなった頃には、空は茜色に染まっていて‥‥

 

「‥‥」

 

最初、彼が纏っている赤も、そのせいかと思うほどだった。

 

だが違った。

 

「山崎さん‥‥」

痛々しげに顔を歪める千鶴に対し、沖田はやれやれと呆れたような顔をしている。

「その傷でここまで走ってくるなんて‥‥称賛を通り越して呆れるよ。」

君、本当は化け物なんじゃないの?

という冗談に、山崎は木の幹に寄りかかったまま目を眇める。

茶化さないでくださいとでも言いたげなそれで、沖田はやれやれと肩を竦めた。

「足を止めろと、仰るんですか。

‥‥捕縛されれば死ぬだけ、です。」

痛みを堪えるように切れ切れの言葉を山崎は紡いだ。

「い、今傷の手当てを‥‥っ」

千鶴が慌てて手拭いで傷口を押さえ、手早く布を裂いて止血を試みる。

真っ赤な血を溢れさせている脇腹に布を押し当て、更に布を裂いてぐるぐると傷口を覆った。

 

「山崎君がここにいる‥‥って事は、土方さんの命令?」

「‥‥はい。」

こくりと彼は頷いた。

 

甲府城付近で彼らと離れた後、山崎は一人土方率いる本隊に合流した。

その後土方に頼まれて一人、新政府軍の動向を探るために一人探索を行っていたらしい。

 

「それで、私たちを見つけてくれたんですね?」

 

千鶴が訊ねると彼は一瞬、何故か言いよどんだ。

言うべきか迷う‥‥というように視線を泳がせ、やがて意を決して口を開く。

「あなた方を見つけたのは、数日前です。」

「え?」

千鶴は驚きの声を漏らし、沖田は僅かに双眸を細める。

「‥‥特に驚きはありませんでした。

いつかこの日が来ると思っていましたから。」

彼らが新選組を追ってくるだろうと――

そんなことはわかりきっていた。

でも、

「俺は、迷っていました。

‥‥近藤さんの話はご存じですね?」

彼は迷っていた。

 

「俺は‥‥沖田さんを、土方さんに会わせたくありませんでした。」

 

近藤の事を知っているならば‥‥知って、追ってきたというのならば、

 

「僕が、土方さんを殺しそうだから?」

 

そんな悲劇が起こらないとは‥‥限らないから。

 

「‥‥」

山崎は何も言わなかった。

ただ、それが答えなのは誰もが分かった。

答えの代わりに山崎は小さく続ける。

「俺はあなた方に声を掛けられませんでした。」

沖田に土方を会わせていいものか分からなかったから。

でも、

「見なかったことはできなかった。」

だから、今日までの数日間‥‥彼は二人の動向を見守っていたのだ。

まるで、見定めるかのように。

 

「‥‥僕たちを監視してたの?」

沖田は厳しい口調で訊ねた。

そんな彼に山崎は迷わずに「はい」と答えた。

 

「‥‥」

しばしじっと睨み付けるように見つめていた沖田だが、やがてふいにはあ、と大きなため息を吐いた。

「僕ともあろう者が、完全に気づかなかった。」

どこか悔しそうに言う沖田に、山崎は冷静な声音で告げる。

「それだけ、今の沖田さんには、疲労が蓄積しているのだと思います。」

「そうかもしれないね。」

沖田は簡単に肯定して肩を竦めて見せた。

そして、いつものように笑みを浮かべる。

「監視の謝罪はいらないよ?

気づかなかった僕らが悪いんだし‥‥それに、山崎君は命の恩人だから。」

その態度に虚を突かれたらしい。

山崎は目を見開いて硬直した。

信じられないと言うような目で沖田をしばし見つめた後、どうにか我に返り、感動したように呟く。

「‥‥ずいぶん、人が変わりましたね。」

それはかなり失礼な反応だと沖田は苦笑した。

その表情は‥‥以前の彼からは考えられないほどに穏やかで、優しかった。

 

「土方さんに会えたら、あなたはどうするんですか?」

「まだ決めてない。」

きっぱりと沖田は言った。

「本当のところを言うと、僕も分からないんだ。

斬るかもしれないし、斬られるかもしれない。」

それは会ってみないと分からないと彼は言う。

沖田の言葉に山崎は少し目を細め、

「新選組は、会津にいます。」

じきに、仙台へと動くかもしれない。

と彼は教えてくれた。

そうして、

「あの人を‥‥土方さんを、頼みます。」

まるで振り絞るような声で、願いを口にする。

 

そんなの‥‥自分でなんとかしなよ。

 

以前の彼ならばそういったかもしれない。

だが、沖田は何も言わず、じっと山崎を見つめるだけだった。

その目は‥‥やはり真剣だった。

 

「俺は、ここで休んでいきます。

少し、しゃべり疲れました。」

やがてふっとため息を漏らした山崎は目を閉じた。

「‥‥土方さんに伝えてください。

『少し遅れますが必ずや合流します』と。」

木の幹に寄りかかり、細い呼吸を何度か漏らす。

 

そうして、すぅ、と静かな呼吸を漏らすと‥‥彼はもう何も喋らなくなってしまった。