8
長く続いた雨が漸く上がり、降り注ぐ日差しが強くなっていくのを感じる。
夏が近づいてくるのだろう。
はあまり暑いのが得意ではない。考えてみれば雪国育ちなのだから当然かも知れない。
暑いと動くのも億劫になり、身体を壊しやすくなるので苦手だ‥‥とは言っても京にいたほどの茹だるような暑さでは
ないのが救いだなと思いながら洗濯物を畳み終えるとゆっくりと立ち上がる。
「あれ、土方さん?」
洗濯物を仕舞おうと部屋へと向かう途中、縁側でぼんやりと庭先を見つめている男を見つけた。
声を掛ければ広い背中がゆっくりと動き、顔がこちらを向く。
「おお。」
「こんな所で何してるんですか?」
問いかけながら近付いていくと彼は庭先へと視線を戻しつつ答えた。
「随分と殺風景な庭だと思ってな‥‥」
言葉にも庭へと視線を向ければ、なるほど、彼の言うとおりその邸の庭は随分と寂しく見える。
なんせ木々が植わっていないのだ。
ここを譲ってくれた佐絵は、つい二年ほど前にこの邸を建てたのだと言っていた。
本当は町から家財道具一式を持ってこちらに移り住み、落ち着いた所で庭いじりなどもして賑やかにしようと思ってい
たのだろうが、それよりも前に戦が本格化し、その余裕もなくなり、放置したまま‥‥という所だろう。
折角広い庭があるというのにこうも殺風景では勿体ない。
せめて、花木の一つでもあれば賑やかになるのだろうけれど。
「‥‥。植えるとしたら何が良い?」
だからといって、には花々の善し悪しというのは分からない。
色町に売れっ子花魁として潜入していたとしても所詮風流を愛するという心も付け焼き刃程度で、未だに花の名前など
ろくに覚えられないのだ。食える食えない、毒がある、なし、なら分かるけれど。
「私、花にはあんまり詳しくないんですけど‥‥」
「そんな事ぁ知ってる。」
知ってると言い切られてそれはそれでちょっと複雑な思いで、は眉を寄せた。
そんな彼女を笑ったのか、小さくくつくつと土方は笑い、
「おまえが好きなもんを言えよ。そいつを植えてやる。」
なんて言うので、は思わず目をまん丸くした。
例えばが「花が好きだ」というのならば、突然そんな事を言いだしたのも納得がいっただろう。
でもはどちらかというと花に興味がない。と言うか、花は苦手な方だ。まず、近付かない。何故なら花が咲き、蜜
を出せば必然彼女の天敵が現れるからで、小さな子供が花畑を見て目を輝かせている横で青ざめるような子供だった。
一瞬嫌がらせなのかと思ったものの、この男がそんな事をするはずもない。
ならば何故‥‥それよりも、何故今なのだろう?
「‥‥寂しいだろう?」
それに答えるつもりだったのか、それともたまたまなのかは分からないが、土方の呟きはの問いの答えに近しいも
のだった。
「俺たちはこれからここで暮らしていくんだ。いっくら、死んだ人間としてひっそりしなきゃいけねえとはいえ‥‥庭
に木の一本もねえんじゃつまらねえ。」
墓場じゃあるまいし、という言葉にひやりとさせられつつ、は彼の言い分は確かに正しいと納得させられた。
確かに彼らはここで暮らしていく。
これからどれほどの時間かは分からないけれど、ここが恐らく終の棲家となるのだ。
死にに行く運命とは言っても殺風景なのはやっぱり寂しい。
庭木の一本や二本あっても罰は当たらないだろう。
「何を、植えます?」
「だから、それを聞いてんだろ。」
の問いに土方は苦笑で噴く。
そう言えばそうだったとは首を傾げて考え込み、だがすぐにその名前が口をついて出てきた。
「さくら。」
先にも言ったように、は花には詳しくない。
花の名前と形を一致できるものは両手でも足りるくらいだろう。
が最初に覚えたのが花であり、同時に、にはそれしかないと思わせるのがその『桜』なのである。
桜を選ぶのには理由があった。
何故が最初に覚えたかというと、試衛館時代、皆でよく花見をしたからだ。
それはの中で決して忘れられない思い出となるほど、楽しくて優しい記憶。だからは今でも桜を見るとその時
の事を思い出す。
思い出してちょっと切なくなって、ちょっと暖かい気持ちになる。
だから、庭に植えるならば桜が良い。
試衛館の皆と‥‥一緒にいられるような気持ちになれるから。
それに、
「桜は、土方さんみたいだから‥‥」
「‥‥‥‥」
そっと、目を細め、寂しい庭先を見つめるその横顔は何故か泣きそうに見えた。
彼女は何を見ているのだろう?
何を思ったのだろう?
まだ植えられていない桜の木と、そして寂しげな庭先を見て何を‥‥
「‥‥」
不意に伸びてきた手が頬へと触れた。
大きな手は勿論、彼、土方のそれで、顔を向ければ驚くほど近くに彼の顔が近付いていては息を飲む。
「」
切なげに名を呼びながらもう一方の手で、細腰を攫い抱き寄せた。
きっとそのまま身を委ねていたらすぐに唇が重なったのだろう。
優しい口付けには慰められたに違いない。
だが、
「っ」
はまるで拒むみたいに顔を背けてしまう。
それがあまりにあからさまだったのに気付いて慌てて「あの」と口ごもりながら視線を落とす。
「‥‥」
口付けを拒まれた男はそのまま、彼女の横顔をじっと見つめる事となった。
分かっていた事とは言え、土方の胸はずきりと痛む。
僅かに眉根を寄せて奥歯を噛みしめたのを、きっとは気付かないのだろう。
重たい沈黙が落ちた。
居心地の悪い空間には「その」と口を開いて何かを言いかけ、
しかし、どんどんと玄関から聞こえてくる賑やかな音に遮られて消えた。
どうやら来客のようだ。
ほっとしつつ、は、
「お客さんです。ちょっと、見てきますね。」
と言って、彼の胸を押して逃げ出すみたいに走って行ってしまった。
残されたのは彼女が持っていた、畳んだはずの洗濯物。
それは腕から落ちた瞬間にぐしゃぐしゃになり、まるで彼の心を表すみたいに散乱していた。
「‥‥」
土方は溜息を吐きつつ、手を下ろす。
その顔には苦い色が浮かんでいた。
に逃げられるのはこれが初めてではない。
佐絵が邸を出てもう一月になるだろうか、その一月の間土方は今日まで彼女に触れる事は許されてもそれ以上を出来ず
にいた。
例えば口付けようとすればああして拒まれ、逃げられてしまうのだ。
まるで、自分とは深い仲になりたくないと言う風に。
何故かは分からない。
理由を聞いた事はなかった。
ただ、時折思い詰めたような顔をしているのを見かけていたので、何か考えがあるのだろうと分かったから。
きっといつか、話してくれるだろう事を土方は待つしかなかったのだ。
しかし、
「流石に俺でも、こうも露骨に避けられると落ち込むってんだよ。」
ぼそりと零した男の弱音は彼女の耳には届かない。
「よ!久しぶりだな、!」
玄関の戸を乱暴に叩く来客があった。
はいはい今出ますよと言って戸を開けてみて、そこに立っていた人物たちの姿に、はらしくもなく目をまん丸く見
開いて凍り付いてしまう。
一瞬、夢でも見ているのかと思った。
「‥‥新八‥‥さん、左之‥‥さん?」
そこに立っていたのは、かつての仲間たちの姿だったから。
夢か夢じゃないのかと恐る恐ると呼びかければ、二人は変わらない笑みをにっと浮かべて、頷く。
「久しぶりだな。
元気にしてたか?」
とわしゃっと頭を撫でられ、は一拍の後、
「えぇええええ!?」
と大声を上げてしまった。
そのあまりの馬鹿でかい声にどうしたと家の中から彼が出てくるほどの声を。
「お!土方さんも生きてたみたいだな!」
よぅ!と永倉は手を挙げて挨拶をする。
土方も同様、驚いたような顔をした後、
「なんだ‥‥やっぱりおまえらも生きていやがったか。」
苦笑でしぶとい奴らだと憎まれ口を叩く。
彼らが属していた靖共隊は、会津藩が降伏した後、それぞれに解散をして散り散りになったという。
それから永倉は一度江戸に戻り、松前藩士として帰参が認められることとなったのである。
原田は一度永倉と離れ彰義隊に属するも、上野戦争にて負傷し静養を余儀なくされ‥‥そうこうしている内に戦が終結
したというのだ。
怪我が快癒した頃、ひょんな事で永倉と再会し、ここまでやって来たという。
「‥‥悪運の強え奴らだ。」
あの激しい戦いの中、命を落とした仲間は数え切れないほどいた。
その中で生き残ったというのは奇跡に近い。
「それを言うなら土方さんの方だろ?」
「聞いたぜ、箱舘戦はすごかったらしいじゃねえか。」
傷の具合はどうだと二人に聞かれ、彼はひょいと肩を竦めた。
大した事はねえ、と言いたげな彼に、
「嘘吐き。
あっち側に脚突っ込んでたくせに。」
が非難するように呟く。
そんな彼女に土方は困ったように顔を顰めて、
「そいつは‥‥」
とかなんとか、言いよどむ。
実際彼の怪我は酷くて‥‥正直なところよく持ち直したなと感心さえしている。
銃弾を受けて落馬した後、風間との一騎打ちだ。
「ま、まあんな事はどうでもいいじゃねえか。
折角来たんだし、上がっていけ。」
じとっと半眼で睨む彼女から逃げるように、土方は二人を促した。
それに応えようとして、そうだ、と彼らはにやりと笑った。
「実は‥‥二人に会わせたい奴がいるんだよ。」
「会わせたい奴‥‥?」
誰?
とは首を捻った。
土方は怪訝そうに眉を寄せている。
原田と永倉は互いに顔を見合わせ、何だか嬉しそうに笑うと、無言で一歩横に避けた。
そうして出来た空間に‥‥
「‥‥ぇ‥‥」
じゃり、と砂を踏みしだいて現れる人物が一人。
今度こそ、は目玉が落ちてしまうかというくらい、大きく琥珀のそれを見開いた。
土方も声もなく、驚きの表情でその人を見つめている。
ざ、と爪先が綺麗に揃えられて止まった。
「嘘‥‥だろ‥‥」
ふわりと風に、柔らかく黒髪が揺れる。
「ご無沙汰しております。土方さん‥‥」
呆然とした呟きに、静かな青い炎が細められた。
「さい‥‥とう‥‥?」
そこにいたのは紛れもなく、彼――斎藤一だった。
あの日、銃弾を受けた斎藤は海に落ちた。
荒波に飲まれそのまま海の藻屑となるはずだった。
だがどういう気まぐれなのか、彼は深い海へと沈むことはなく‥‥戦いの地より離れた小さな港町に流れ着いたのだ。
そして運良く通りがかった村人に介抱され一月ほど前、漸く目が覚めたのだという。
その時にはすっかり戦は集結していた。
彼はそれでも会津藩への忠義を尽くすために斗南藩、松平容大の元を訪れ、彼の命によりこの蝦夷地へとやって来たと
いう事だった。
「‥‥よく、生きてたな‥‥」
まだ信じられないといった面もちで土方は呟く。
海に落ちた事もそうだが、彼は銃弾を胸に受けたと聞いていた。
それがよく無事生きていられたものだと呟くと、斎藤は僅かな笑みを湛えて懐よりそれを取りだした。
「これが‥‥」
男の掌には、赤い組み紐が乗せられていた。
それは引きちぎれて結ぶことは出来ない。
「嘘のような話ですが、これが‥‥俺を守ってくれました。」
その組み紐には皆が見覚えがあった。
それは‥‥
彼女が以前身につけていたものだ。
「‥‥あんたのお陰だ。」
そう、の髪を束ねていた‥‥組み紐。
それはただの紐だ。
鉛の弾はいとも簡単に貫き、引きちぎってしまうだろう脆いもののはず。
そんなもので、銃弾を止められるはずなどない。
でも、それが彼の命を繋ぎ止めたのだ。
どんな偶然が重なったのかはわからないけれど、確かにその組み紐が斎藤の心臓を銃弾が貫くのを阻んだ。
彼の命を‥‥救ったのだ。
「あんたのお陰だ。」
斎藤はもう一度言って、柔らかく笑う。
そういえば彼に最後に髪を結ってもらったあの時だっただろうか。
あの後気付くとは自分の組み紐が彼の髪を結っていたその紐とすり替わっていた。
彼がすり替えたのだというのはすぐにわかったが、まさかそれを彼が今も持っているとは思わなかった。
勿論、彼の紐はも大事に持っているのだから彼も同じく持っている可能性だってあるのだろうけど‥‥
でも、
でも、
ああ、頭の中がぐちゃぐちゃになっていく。
一体どうしたのか、思考が麻痺しては何も考えられなくなっていた。
ただ、驚きに目を見開くしか出来なくて、
瞬き一つ出来なくて、
‥‥ぱたり、
「っ!?」
斎藤がぎょっとしたように肩を震わせ凍り付く。
こぼれ落ちたそれに気付いて土方はの方を見て‥‥
「‥‥ったくおまえは‥‥」
と困ったように、でも優しい声で溜息を吐いた。
驚かすはずだった永倉と原田だったが、そんな彼女の様子に斎藤と同じように驚いたような顔になり、
「お、おおおおおい!?」
「うわっ!?!?」
二人はあわあわと慌てた様子で声を掛けてくる。
ぱたぱたと。
後から後から滴が落ちてくる。
しようのねえやつだなと土方は苦笑を漏らしながら彼女を小さな頭を撫でた。
「もう、我慢する必要はねえんだぞ――」
その優しい声に、自分でもぷつんと何かが切れるのが分かった。
瞬間、自分の中に押し込んでいた感情が全てあふれ出すのが。
「う、ぁっあ‥‥」
悲しみが、苦しみが、
涙となって溢れる。
それ以上の喜びが‥‥音となって、溢れる。
「ぁあああああ――」
まるで、泣き方さえ知らない子供みたいに‥‥は泣いた。
今まで溜めてきた全てを吐き出すみたいに。
大声を上げて‥‥泣いた。
そして、彼らが持ってきてくれた文を目にして、はもう一度大泣きする事となる。
それはかつて死んだと言われていた山崎からの文だったのだ。
もう、何に驚いて何に喜べばいいのかわからない。
ただただは泣きじゃくり、斎藤と永倉があたふたする中、土方と原田は苦笑で彼女を慰め続けたのだった。

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