16

 

今日はやけに月が明るいなと、は空を仰いで思う。

こうも明るくては仕事が遣りにくくていけない、と。

 

白い息を吐きながら、は一人、庭先に立っている。

夜中だというのにその出で立ちは寝間着ではなく、いつものそれで。

しっかりと紺碧の着物に身を包み、彼女は腰に刀を差していた。

 

今から任務だというのに、の足は何故か止まっていた。

月を見上げて、

彼女はそっと目を細めた。

 

時折、ぼんやりと考えてしまう事があった。

 

これからのこと。

羅刹になった彼らの事。

鬼の事。

それから、

自分の、事。

 

「‥‥」

 

はそっと己の手を見下ろした。

その下に流れるだろう赤い血を思って、

ゆっくりと頭を振った。

 

ぼうっとしていると余計な事を考えてしまう。

 

自分が、鬼である事。

そんな事考えたところで何が変わるわけでもないのに。

自分が何者か、なんて、変わらない。

これからもこの先も、彼らと共に行く。

それだけ‥‥

そう、思うのに。

 

「‥‥」

 

はゆっくりと手を空へと伸ばした。

 

その下に流れる血を、透かして見るように。

 

人と違う、回復力を持つ血。

それは稀な命を生かす為の能力なのだろうか。

鬼の血は、持ち主の傷をいとも簡単に癒す。

それは便利とも、不気味とも、思えた。

 

何も変わらない。

外観こそ同じ人間。

だけど、その下に流れる、

その身体を組織するものが違う。

まるで人の皮を被った別の何か。

そんな気がして、は我が身が恐ろしいと思った。

 

自分は何者だというのだろう。

 

静姫と呼ばれる自分は‥‥一体‥‥

 

関係ない。

と考える一方、疑問が頭をよぎる。

 

心がまるで分離するように。

鬼である自分と、

人でありたい自分。

自分の中に、まるで二つの意識があるように、互いに囁きあうのだ。

 

――知りたくない――と。

今のままでいたい、変わりたくないと。

――知りたい――と。

自分が何者であるか、知りたい。

否、

知らなくてはいけないと。

知らない、自分の声が囁く。

 

「知ってどうなる?」

 

は一人ごちた。

 

自分が何者か、知った所で何が変わるというのか?

自分は新選組の一員だ。

彼らと一緒に行くと決めた。

どうなろうと、彼らと共に行くと決めたのだ。

関係ない。

自分が鬼であろうとなかろうと。

 

「関係ない。」

 

は緩く首を振った。

それに応えるように、

 

――おまえはここにいるべきではない――

 

声が聞こえた。

 

ぞくりと身体が震えた。

今の自分を全て否定された気がして、怒りさえ覚えた。

 

「私の居場所はここだ。」

 

は言った。

 

――否、人と鬼とは相容れないもの――

 

声が応えた。

 

違うと言いかけるのを、声が更に続いて、遮った。

 

――おまえも‥‥分かっているだろう?

 

人というものがどういうものか。

それを肌で感じているだろう、と。

 

「っ――!」

 

言葉に応えるように、目の前が一瞬真っ赤に染まった。

夢で見た、景色が目の前に流れる。

赤く染まる空と、大地と、押し寄せる黒い人。

あちこちに倒れているのは、人の姿をした人ではない存在。

濃い血のにおい。

焼けこげるにおい。

悲鳴と怒号が、闇に飲まれて消えた。

 

それを引き起こしたのは人と鬼の‥‥

 

 

――ダン!!

 

 

は板塀を叩いた。

 

みしりと嫌な音を、自分の拳が立てた。

風の唸る音が聞こえた。

 

ふ。

と誰かが暗く笑う音が聞こえた。

 

――おまえは、人でも鬼でもない存在だったな――

 

嘲笑うような響きだけを残して、声は消えた。

 

じっと地面を睨み付けたまま、は唸るように、

「私は――私だ。」

と呟いて、歩き出した。

 

また、雲が月を隠して、闇に変わった。

 

 

 

夜の通りは、誰もいない。

風の唸る音だけが聞こえて、まるで世界にひとりぼっちになったみたいだとは思った。

いや、実際は何も感じなかった。

ただ、ただ何も思わずに通りを歩いていた。

じゃりと自分の足音が時折大きく聞こえる。

ぼんやりと大地を見つめて歩いた。

 

人気のない道を、は歩く。

大きな通りへと、ゆったりとした足取りで。

その時、

 

――――

 

と気配が動いた。

「っ!?」

は咄嗟に身を固くしたが、構えるよりも先に伸びた手が裏路地へと引きずり込む。

しまったと思った。

その瞬間、背中に冷たいものが走った。

人がいるはずがないと思っていたから油断した。

常ならば絶対にしない過ちだ。

一度の過ちが死を招く。

「っぐ!」

だからは藻掻いた。

それがもしかしたら自分の寿命を縮めるかも知れないと分かっていたけれど。

 

しかし、

 

「しっ!」

次いで聞こえたのは聞き覚えのあるもので。

ふわ、

と控えめな梅の香りに、は「あ」と小さく声を上げた。

それは知っているものだった。

「土方‥‥さん?」

小声で問えば、彼もやはり小声で答える。

「静かにしてろ。」

張りつめたそれにただならぬものを感じては口を噤む。

 

すると聞こえてきたのは複数の足音。

すぐ目の前の通りを、複数の男達が駆けていくのが見えた。

彼らは揃って刀を差していたが、羽織っているのは浅葱のそれではない。

見知った顔も、一つとしてなかった。

険しい顔で通りを駆け抜けていくその一団は、

 

「薩長の連中だ。」

 

土方が呟く。

 

「ここん所形を潜めてたんだが、昨夜あたりから動きがあってな‥‥」

「なるほど‥‥」

「あちこちから集まってきてるらしい。」

少し前までは朝敵として京に入る事さえ敵わなかったというのに、幕府が落ち目とあって、彼らも好き放題だ。

 

砂埃を巻き上げて駆けていく彼らの後ろ姿を見送り、土方はぽつりと呟いた。

「変な事を企んでなきゃいいんだが‥‥」

「いや、そりゃ絶対企んでるでしょ。」

大方、幕府潰しか、新選組潰しか‥‥

いやその両方だろうな。

は半眼で睨み付けた。

 

やがて砂埃は止む。

風が唸る音が聞こえ、ふ、とため息が聞こえた。

それが項を掠めてはビクッと震える。

 

今更ながら今の状況を思い出して、は少し身動ぐ。

と、

「ああ、悪い。」

土方が手を緩めた。

解かれ、温もりが離れる。

すぐに表に出て鉢合わせるのも問題だとでも思ったか、土方は腕を組んで傍の壁に寄りかかった。

まだ僅かに警戒の色を滲ませたまま通りを見つめている。

ちらり、とは彼を盗み見た。

 

――こっちの問題をすっかり忘れてた。

 

と心の中で呟く。

 

「ん?」

視線に気付いたのか、土方が視線だけを向ける。

ばちり、と合った瞬間、

「っ‥‥」

は思いっきり視線を逸らした。

それはあまりにあからさまであるが、それ以外にはどうしようもなかった。

 

なんせ、

あれから、5日。

はあの事に関して謝るどころか、彼とは顔さえ合わせていない。

ただ単に忙しかったという理由もあるが、それ以上に自分を悩ませる事があって‥‥すっかり忘れていた。

 

「‥‥」

 

視線をあからさまに逸らされた土方は、というと、一瞬眉間に深い皺を寄せ、また通りへと視線を向けた。

そのまま唇を引き結んだままになる。

 

無言。

 

「‥‥」

 

はひくと口元を引きつらせた。

 

非常に‥‥居づらい。

押しつぶされそうだ。

彼はあまりおしゃべりではないが‥‥それでも、自分と一緒の時はある程度喋ってくれていた事に今更ながらに気付く。

ツライ。

非常にツライ。

 

いや、招いたのは自分だ。

 

彼を怒らせたのはあの夜の自分で。

そんでもって‥‥それについてまだ謝っていないわけで。

いや、今更な気もする。

今更な気もするけど‥‥この状態は、ツライ。

 

は、は、と一つ吐息を漏らした。

 

そうして、意を決すると、

 

「ご‥‥ごめんなさい。」

 

蚊の泣くような声で、そう告げた。

 

「‥‥あん?」

小さな声だったが、彼の耳には届いたらしい。

彼は怪訝そうな表情のままにこちらを見た。

紫紺の瞳に見つめられ、一瞬「う」と怯むものの、は腹に力を入れて、今度はきちんと音にした。

「ごめんなさい‥‥」

言って、頭を下げる。

まじまじとこちらを見つめる視線をざくざくと感じながら、は居たたまれないその空気を誤魔化すみたいに早口

で喋った。

「や、あの夜は、頭んなかぐちゃぐちゃになって‥‥

その、土方さんが心配してくれてるのは分かってたんですけど、なんていうか、頭ん中真っ白になって‥‥」

まさに今の状況もそうだ。

頭の中が真っ白になる。

何を言えばいいのか分からなかったが、とりあえず思いついた言葉を口にしてみた。

「八つ当たりなんてガキくさいことしてしまって‥‥そんでもって、都合良く土方さんに弱音吐いたりして、あの時

ほんとになんていうか、ええと‥‥」

「‥‥」

「ええと‥‥」

「‥‥」

後何を言うんだっけ?

は俯いたままだらだらと汗が出てくるのを感じた。

今日は寒いはずなのに。

 

「と、とにかくすいませんでした!」

 

今度は勢いよく、頭を垂れる。

 

さあ、後は怒鳴り声が来るか。

拳骨一発飛んでくるか。

とりあえず、なんでも来いと歯を食いしばって彼の反応を待つしかなかった。

 

 

――――

 

 

ざぁ。

と風が一度、強く吹いた。

ざわざわと木の葉がざわめく音だけが暫く響いて、止む。

その間、終始、無言だった。

 

「‥‥‥」

 

頭を下げたままのは、その無言の中で再び「どうしよう」と心の中で告げる。

変わらず、

無言だ。

重たいくらいの沈黙。

 

あれ?もしかして、私の言葉聞こえてなかった?

風に邪魔された?

いや、それより、

 

よほどご立腹?

 

弁明の余地もないほどに怒っていると言う事か?

 

そんな狭量な人間ではなかったと思うのだが。

 

はしばし頭を下げていたが、

「あ、あのぉ‥‥」

と控えめに言いながら視線を上げた。

やはり今更謝っても遅いのだろうか?

不安げに視線を上げていくと、相変わらずこちらを見つめていた紫紺の瞳とぶつかった。

しかし、

「‥‥へ?」

その瞳に怒りの色など微塵も浮かんでいなかった。

「ったく、おまえは‥‥」

それどころか、彼は瞳を細めて、苦笑していた。

「この世の終わりみてえな顔して何を言い出すかと思えば‥‥」

くく、と彼は喉を震わせて笑っている。

「え‥‥え?」

予想とは違う反応に、は戸惑いを隠せず、馬鹿みたいに同じ言葉を繰り返した。

そんな彼女に、土方はしかたねえなという顔をした。

 

「怒ってねぇよ。」

 

最初から。

と彼は言う。

 

その言葉に更には目を丸くした。

ますます意味が分からない。

怒っていなかった?

最初から?

 

「そ、そんなはずないじゃないですか。」

「なんでてめえが決めるんだよ。」

思わずそう思ったから口にしたら、土方が怪訝そうな顔で答える。

いや、確かにそうだが、でも‥‥

怒らないはず無い。

怒られても仕方ない事を自分がしたという自覚はあるのだ。

「‥‥だって、私‥‥酷い事。」

子供みたいに当たり散らして、そのくせ彼に泣き言を言って‥‥それを有耶無耶にしたまま今に至るのだ。

自分勝手だと怒られても仕方ない。

助勤として失格だと言われても仕方ない。

そう、思うのに。

 

「‥‥あんなの、他の奴らが癇癪起こしたのにくらべりゃ、まだ軽いもんだろ。」

 

しかし、彼はひょいと肩をすくめただけだ。

いや、そんな。

は口の中で呟いた。

 

「でも、だって‥‥」

あの時「勝手にしろ」と背中を向けたとき。

確かに彼は怒っていたはずだ。

思い出しても悲しくなるが、その背中からは明らかな拒絶を感じた。

最初に拒絶したのは自分なのだから仕方ないとは思うけれど、あれは拒絶だったはずだ。

 

「あれは‥‥」

そう言えば、彼は決まり悪そうに視線を逸らす。

がしがしと首の後ろを掻きながら、

「‥‥ちょっと、面白くなかっただけだ。」

「?」

ぼそりと零した言葉が聞こえない。

なに?と聞き返すと、土方に睨まれた。

「なんでもねえ。」

「?」

「とにかく、俺はあの件に関しちゃ怒ってねえ。

だから、この件は終わりだ。」

「よ、良くないですよ!私は気にします!」

そこは譲れないとは反論した。

すると彼は半眼になってこちらを睨み、

「副長命令だ。反論は許さねぇ。」

そう言われてしまっては閉口せざるを得なかった。

 

いつもは副長命令とかそんな事言わないくせに、こういう時に使うなんて狡いと思う。

怒ってないと言われても、怒鳴って貰った方がいくらかの気も紛れる。

それか一度殴って欲しいくらいだ。

納得できない。

納得できない、

 

のに、

 

「‥‥もう‥‥」

 

は苦笑を浮かべた。

 

土方はこちらを見て目を細めていた。

 

相変わらず、

狡くて、

優しい男だ。

 

そんな優しい瞳を向けられたら、納得せざるを‥‥得ないじゃないか。

 

はため息を漏らして、もう一言だけ、

 

「ごめんなさい。」

 

と告げる。

土方はただ、

「わかった。」

と答えただけだった。

 

 

 

ふわりと白い吐息が霧散する。

月はだいぶ傾いてきた。

先ほどと同じように無言だったけど‥‥不思議と居心地の悪さは感じなかった。

はちらりと彼を横目で見た。

相変わらず、ぶん殴ってやりたいくらいに綺麗な顔。

だけどどこか、優しい横顔。

 

今まで、

何度も傍で見ていた。

隣にあって、

共に歩んできた。

 

この人はきっと、変わらない。

いつだって厳しくて、優しくて。

隣で何食わぬ顔して立ってるんだ。

そして、その隣に、

自分が居る。

 

これからもきっと、変わらない。

彼の。

彼らの傍にいる。

 

それが、

 

自分の居場所。

 

そう。

彼は言ってくれた。

 

「自分がいると」

 

自分の傍が、の居場所だと。

 

そうだ、何を悩む必要があったんだろう。

 

は笑った。

 

自分がなんであろうとなかろうと、

自分の居場所はここだった。

彼らの、

傍。

 

だって、彼が言ってくれたんだから。

だから‥‥

だから、

 

「そろそろ‥‥戻るか。」

土方が通りへと視線を向けたままに呟く。

はひとつ頷いて、

「私もそろそろ‥‥行きます。」

と答える。

土方よりも先に歩き出せば、ふわりと夜の冷たい空気が頬を撫でた。

 

「行ってきます。」

 

そうして、首だけを振り返って、笑った。

 

衣を翻して夜道に飛び出す。

それよりも早く、その人が手を伸ばした。

 

「っ!?」

 

ぐ。

と、少しだけ強い力に引かれて、

は目を丸くする。

大きな手が、の手を取っていた。

剣士らしい、ごつごつとした、その手は‥‥重ねると自分の寄りも随分と大きいのだと分かった。

 

「行って来い。」

 

彼は背中を向けたままの彼女に告げる。

 

行って来いと。

そのくせ、掴んだ手が、一度、強く、

彼女の手を包んだ。

 

まるで、を繋ぎ止めるように。

 

そして、

 

「行って来い‥‥」

 

離れる。

どこか、名残惜しむように。

手を離すのを躊躇うように。

 

長い指先が、

の指先に、

触れる。

 

強く、触れた熱に、

 

どくんと、

 

鼓動が一つ跳ねた。

 

その瞬間、唐突に、

意識する。

 

 

彼もまた自分と違うのだと。

人とは違う自分と、彼という存在は違うと。

 

彼が、

 

男であるということ――

 

 

どくん、

と、鼓動が跳ねた。