ブツ。

と嫌な音を立てて、鼻緒が切れた。

よりによってこんな時にと、土方は煩わしげに布を裂くと手早く鼻緒を直す。

そうしながらふと、六番組が待機しているはずの方向へと視線をやった。

確か、この林の向こう。

そこが彼らの待機場所だ。

と井上が淀城へと応援を要請しに行っているはずだ。

彼らは本隊と合流できただろうか?

まだ薩長の軍勢は迫ってはいないが‥‥

 

「‥‥」

「副長。」

ふいに名を呼ばれ、振り返る。

斎藤だった。

「残った隊士はほぼ全員‥‥こちらに集まりました。」

数はそんなに多くはありませんが、と彼は言う。

これから大坂城へと向かい、そこで長州を迎え撃つこととなる。

 

「後は、別働隊が合流するのみです。」

「‥‥六番組だな。」

「これから、俺が別働隊に伝令に走ろうと思いますが‥‥」

と言いかけ、土方の表情に気付いて止める。

「副長?」

「‥‥」

彼は難しい顔で、そちらを見ている。

別働隊が待機している‥‥その方向を見て。

 

嫌な予感がする。

 

と彼は思った。

少しばかり、嫌な予感がするのだと。

 

鼻緒が切れたせいもあるかもしれない。

だけど、それだけじゃない。

なんだかもやもやと胸のあたりを嫌なものが渦巻いている気がした。

空気がやけにぴりぴりとしている。

普通じゃない。

 

「‥‥斎藤、悪いが。」

彼はしばし逡巡した後に口を開いた。

「本隊はおまえに任せる。」

そう言うと、斎藤は僅かに双眸を開く。

「大坂城まで、隊士を連れていってくれ。」

「副長は?」

「俺は‥‥」

と彼はそちらを睨み付けて呟いた。

「別働隊を呼びに行く。」

ざあ、風が吹いて木々が揺れた。

 

「いやな予感がするんだよ。」

 

空は晴れ渡っている。

それがやけに気色が悪いものだ。

 

「‥‥いやな予感がする‥‥」

 

呟いてそっと、羽織の上からそれに触れた。

それはぞっとするほど冷たい感触を、彼の手に伝えた。

 

 

 

――ぴり。

と肌を刺す感覚に、は大きく飛んで、太い幹に身を隠す。

 

はぁ。

は。

と自分の口から細い息が漏れる。

ぐと噛み殺して、息を潜めた。

 

それが男の気迫なのだろうか。

張りつめた空気が痛い。

まるで、鋭利な刃物のようだとは思う。

 

「‥‥」

 

しばし、様子をうかがい、また、走り出した。

 

井上はどうなっただろう?

考えると走る足が鈍りそうになる。

今すぐ引き返せばまだ間に合うんじゃないか。

そんな考えが頭を擡げる。

だけど、そんなことをしても彼は喜ばないと考えを捨てる。

そう、自分が与えられたのは、ただ一つ。

早く、

早く、彼の元へ。

 

実際は早く彼の所に戻りたかった。

淀城で起きた事を。

井上の言葉を。

そして、早くここから立ち去るべきだと伝えたかった。

 

いや、それよりも、

 

の口から頼りない呼吸が漏れた。

 

不安で堪らない。

不安でどうしようもなくて‥‥

 

彼の顔が見たかった。

そうすれば安心できる気がした。

状況は全然有利になっていないけど‥‥

それでも、彼の顔が見られれば安心できる気がしたのだ。

 

早く、

早く、

 

「土方さんっ」

 

彼に会いたかった。

 

――どこへ行こうと言うのだ?」

 

ぞくりと、

耳元で聞こえる声に身体が震えた。

一瞬思考が止まり、反応に遅れる。

その間だけで彼にとっては十分だった。

 

「ぅあっ!!」

 

ぐいっと、些か乱暴に腕を掴まれ引き戻される。

後ろ手に掴み上げられ、は痛みに顔を歪めながら振り返った。

「っ」

恐れていた事態が起きた。

そこに、彼はいた。

息一つ乱さず、こちらを楽しげに見下ろす、

風間の姿。

 

「‥‥おまえっ」

 

は身動ぐ。

それを片手で易々と捕らえ、彼はにんまりと嫌な笑みを浮かべる。

そんなに時間は経っていないはずだ。

まだ彼が追いつくには早すぎる。

 

「源さんはっ、どうしたっ!」

 

まさか彼を放り出してここへ来たというのか。

そう訊ねれば、風間はこともなげに言ってのける。

 

「望み通り‥‥斬ってやった。」

「‥‥」

「今頃、あの世で俺に刃向かったことを後悔しているだろう。」

「っ」

 

覚悟していた事だった。

出会った頃から、

彼らと共に戦うと心に決めた時から、覚悟していた。

いつか‥‥仲間だと思っていた人の死を目の当たりにする事など。

覚悟していた。

仲間と、いつか別れなければならない事。

 

分かっていたはずだったのに。

 

――

 

喉の奥で悲鳴が弾けそうになる。

こみ上げる悲しみに目の前が真っ暗になる。

目の前が揺れた。

もう井上が生きていない事に、絶望した。

 

「源‥‥さん‥‥」

 

いつだって優しくしてくれた。

笑って、

と呼んでくれた。

大きなごつごつした手も覚えている。

笑うと細くなってなくなる目だって、覚えている。

彼がどれほどに優しい人だったか。

暖かい人だったか。

それがもう、

この世にはいない。

 

「人間ごときの死を、悲しむか?」

 

く、と嘲るような声が聞こえた。

言葉に、は憤怒の表情を浮かべて藻掻いた。

無駄死にだったかもしれない。

確かに無謀だったかもしれない。

だけど、彼の死を、彼らの誇りを汚すことは、許されない事だった。

彼らは潔く、武士として戦い、散った。

それを嗤うことなど、は、

あの男は、

許さない。

 

しかし‥‥

 

「無駄だ。」

 

ぎり、と一際強く捻り上げられみしりと嫌な音がした。

痛みに悲鳴が漏れそうになるも、それを歯を食いしばって止めると、射殺さんばかりの視線で睨み付けた。

「威勢がいいのは褒めてやろう。」

そうでなくてはつまらん、と風間は耳元で囁いた。

ねっとりと粘つくようなそれが、は嫌だと思った。

どこか甘さの残る声は脳を直接撫でるようで‥‥ぞわぞわする。

 

「貴様‥‥雪村の血を継いでいるらしいな。」

鬼は問うた。

「っ!」

は双眸を見張る。

風間は背後から、首の血管を流れる血のにおいでも嗅ぐように、そこに顔を埋める。

「っ!?」

どくどくと脈打つ場所に、鼻先を寄せて、

「しかも、誰よりも濃い‥‥鬼の血だ。」

この俺よりも、な。

と彼は笑った。

笑った瞬間、吐息が肌を擽りの肌は粟立つ。

身を捩ったが、男の手はゆるまらなかった。

それどころか抵抗を楽しむように、くつくつと笑った。

 

「先祖返りという言葉を知っているか?」

「し‥‥るか!」

そんなことより離せとは悪態をつく。

風間は知らなければ教えてやろうと、言った。

「おまえは、鬼の中でも稀に見る‥‥濃い血を持った者と言う事だ。」

 

数百年も前。

まだ、鬼たちが東西に分かたれていなかった頃。

まだ、人とも交わりが無かった頃。

その時の強い血が、

には流れているのだと。

 

それはつまり、

 

「純粋なる、鬼の姿。」

 

純粋なる、化け物。

 

それがだと言う。

 

「ち‥‥がっ‥‥」

ぎり。

は腕の拘束から逃れるように力を入れる。

「女鬼でありながら、それほどに強い力を持っているのもその証拠だ。」

いつぞやのは鬼神のようだった。

風間が一瞬遅れを取るほどに。

彼女の鬼としての力は強い。

だが、

所詮は女。

 

「‥‥男に服従するのが、女だ。」

 

く。

と嘲るように笑われ、は振り返って睨み付けた。

 

「誰が‥‥おまえなんかに‥‥」

 

その双眸が強さを増す。

誰にも服従する事のない気高さと、

誰にも汚す事の出来ない清らかさ。

美しい目をしている、と風間は思った。

 

それこそに、

 

辱めてみたい、とも。

 

「面白い。」

彼は笑った。

そのまま力任せにどさっとを大地に叩きつける。

「っ!?」

一瞬息が止まる。

それを苦しいと思う心を必死に退けて、は慌てて飛び起きようとした。

しかし、

「ぐっ!」

起きあがろうと身体を反転させた瞬間、

その身体の上に男がのし掛かってきた。

 

遠慮無く、腹の上に跨られ、は苦しげに呻く。

 

「ど‥‥けぇっ‥‥」

「退いてほしければ、退かしてみろ。」

男はせせら笑う。

「抵抗する女ほど、辱め甲斐がある。」

「この、変態っ!」

は拳を握りしめて男に向かって突き上げた。

それは易々と男に掴まれ、大地へと縫いつけられる。

それならばと足をばたつかせたが、男に一撃を食らわせる事は出来ない。

「く‥‥そっ‥‥」

悔しげには顔を歪めた。

その顔を見て、鬼は愉快そうに目を細めて笑った。

 

「威勢がいいのは結構な事だが‥‥

躾は必要のようだ。」

 

睨み付ける女の頬をそっと、風間は撫でる。

その手つきは明らかに女に何かを感じさせるもので、それを知らない初な子供ではないは、ぐと奥歯を噛みしめた。

 

「おまえのガキなんか産まない。」

誰が貴様に服従するものかとは吐き捨てる。

「ふん‥‥今に俺でなければ駄目だと言わせてやる。」

指先で顎を撫で、そのまま下へと滑る。

ぞわぞわと肌が粟立つ。

くすぐったいのとは違うその感覚に、絶対に声など上げてたまるものかとは思った。

「おまえに‥‥やられるくらいなら、その辺の犬とする方がまだマシだね。」

は吐き捨てた。

そんな言葉に、風間は鼻先で、嘲るように笑った。

「誰が犬になどくれてやるものか‥‥」

と。

その犬と指されたのは、きっとその辺にいる畜生の事ではない。

彼が言う犬は‥‥

 

幕府の犬。

 

つまりは、

新選組の事だ。

 

「新選組は犬じゃない。」

 

は反論した。

それに応えず、風間はゆったりとした動作で、彼女の首‥‥

そこにかけられている首飾りに触れた。

 

触れた瞬間――

 

「触るなっ」

 

の鋭い声が口から飛び出した。

先ほどとは違う、本当に怒りを湛えた瞳で睨み付け、は唸るように言う。

 

「それに、触るな。」

 

の首に、明らかに彼女らしくもなく付けられている首飾り。

鮮やかな赤の紐に、金色に見える石がついた‥‥どこにでもありそうな飾り紐だ。

しかし、それは彼女にとって特別のものだった。

かつて‥‥

土方が自分に贈ってくれたものだ。

誕生祝いと今までの礼として、贈ってくれたもの。

 

彼女にとって‥‥その石は、新選組そのものだと思ったのだ。

様々な色を見せる美しい石。

一つ一つが色を持ち、光放ち、それが集まる石は‥‥彼女にとって新選組のみんなのようだと。

そしてそれを身につけることで、は彼らが傍にいるような気持ちになれた。

離れていても、傍にいるような気持ちに。

 

風間が触れるのはその石を汚す行為だ。

 

つまり、

新選組を汚す行為。

 

「触るな――

 

ぎらりと殺意を滲ませ、は言う。

 

新選組を汚す事は許さない。

そして、同時に、

彼女は何より触れられるのを嫌ったのは‥‥

それが、

 

――土方からの贈り物だったから。

 

ほぅ

と風間は口の中で呟いた。

 

怒りの中に見える、微かな感情に、鬼は気付いた。

なるほど‥‥と彼は呟く。

 

「ならばその想い、断ち切ってやろう。」

 

言うが早いか、男は女の細い首へと顔を寄せた。

瞬間ぎくりとして持ち上がる肩を大きな手が押さえ、そして、

 

ぶつ、り――

 

歯を立てる。

 

嫌な音がした。

 

「う、ぁあああああ――!」

 

目眩がするほどの痛みが走った。

紐を噛み切るのと同時に、男はの首を噛んだ。

人間の犬歯が肌を裂く感触が生々しく伝わってきた。

どくりと血が溢れるのが分かった。

 

ぶつ、ぶつりと、何かが切れる音が聞こえた。

 

「や、めろっ!」

 

ぐ、と拘束された手に力を入れる。

痛みに視界が歪む。

 

ぶ つ

 

やがて、音は止んだ。

 

「‥‥ぐっ、うぅ‥‥」

 

風間はゆっくりと顔を上げる。

痛みに呻くは、しかし、彼の口元を見て、瞳を見開いた。

 

「あ‥‥ァ‥‥」

 

にたりと、男は口元を歪める。

赤い血で口元を汚し、

その口に、

金色に輝く石を銜えて‥‥

 

「こんなものになんの価値もない。」

 

吐き捨てた。

 

放り投げられた飾りは、かんかんっと、固い音を立てて地面を転がる。

はそれを目で追いかけた。

血で汚れた金色の石。

 

手が届きそうで届かない場所にあるそれに、は必死で手を伸ばす。

 

「やだ‥‥」

やだとは泣きそうな声を上げる。

どれほどに伸ばしても、指先が届かない。

 

奪わないで。

もうこれ以上。

自分から何も奪わないで。

 

「じきに‥‥奴らは皆殺しになる。」

 

風間はの耳にそう吹き込んで、笑った。

 

幕府は負ける。

彼らはもうじき、皆殺しにされる。

と彼は言った。

 

いやだとは首を振った。

そんなのいやだ。

 

もう誰も失いたくない。

もう誰も。

誰もっ。

 

「おまえに必要なのは‥‥この、俺だ――

 

男は告げて、の首に舌を這わせた。

赤い血を舐めとり、やがては、女に自分を刻みつけるように、歯を立てる。

それは皮膚を裂いたのとは違って、あまりに優しいものだ。

じりと痛みとは違う何かが身体を走り、瞬間、力が抜けた。

 

は感じた。

それはきっと‥‥諦めだった。

絶対的な力を前にして、為す術もないとは思った。

 

そして同時に思った。

いっそ辱めを受けるくらいなら、舌を噛みきって死んでやろう。

この男の欲に貫かれ、あられもない声を上げて感じるくらいならば。

いっそ、死んでやろうと。

 

「‥‥」

 

は抵抗を止めた。

ぱたりと落ちる手に、風間の目がすいと細められる。

「敵わぬと知ったか‥‥ならば早い。」

その方が利口だ。

離れた男の口元は血で染まっている。

ぐいとそれを袖で拭うと、楽しげに笑った。

そうして、の袷へと手を伸ばした。

冷たい手が肌に触れる。

柔らかな肌の感触を確かめるように触れて、やがて中へと男の無骨な手が潜り込んだ。

 

一度だけは深呼吸をした。

 

脳裏に、あの男の顔が浮かんだ。

こんな時に思い浮かべるのは‥‥やっぱり難しい顔。

せめて最期くらい笑ってくださいよとは心の中で苦笑する。

それから、喉を震わせて泣きそうな顔を浮かべた。

 

まだ彼の傍にいたかった。

彼を支えたかった。

一人になんて、したくなかった。

 

だけど、

 

――ごめんなさい――

 

小さな、謝罪の言葉を口にして、は諦めるように、瞳を伏せた。