その感覚が短くなってきているのを男は知っていた。

その痛みが前よりも強くなっているのを。

 

そして同時に、

 

衝動も。

 

 

 

「斎藤‥‥ちょっといいか?」

原田の呼びかけに、斎藤は足を止める。

「そのさ‥‥土方さんの事なんだけど‥‥よ。」

彼は珍しく暗い表情で、いつものとおり直球で質問をぶつけてきた。

「なんか、おかしくねえか?」

おかしい‥‥

確かに原田の言うとおり、最近の土方はおかしかった。

ここの所の多忙な生活のせいで、人相がすっかり変わっていた。

ろくに眠ってもいないのだろう。

顔は青白く、頬は痩けて‥‥目の下には隈。

一見すると幽鬼みたいな形相をしている。

いつか労咳で伏せっていた沖田よりもひどい有様だと誰もが思った。

 

しかしおかしいのはそればかりではなかった。

 

彼の、

 

「土方さん!ちょっと待って!」

の焦った声が聞こえてくる。

何事かと視線をやれば、丁度帰ってきたらしい土方がこちらへとやってくるのが見えた。

廊下をのしのしと歩いていて、その後ろをが続く。

「これから仕事なんて冗談でしょ!?

すこしは休まないと‥‥」

「大丈夫だって言ってんだろ。

今休むわけにはいかねーんだよ。」

今日も寝ずに仕事を片付けるつもりらしい。

はぁ、と原田がため息を吐いた。

もう責任感云々の問題ではない‥‥あれはもうある意味執念だ。

もう、倒れないのがおかしい。

それほどに彼は無理を通していた。

それがには分かった。

だから、休めと毎日のように言っているのだが‥‥ここ数日は取り合ってもくれない。

もういっそ殴ってでも寝かしつかせてやろうかとが思うほどだ。

 

「意地張ってる場合じゃないでしょ!

土方さんが倒れたらどうするんですか!」

「意地なんか張ってねぇ‥‥」

俺は大丈夫だと言う彼には嘘だと即座に言う。

このやりとりももう見慣れたものだ。

毎日のように繰り返しているから。

よくもそんな事が続けられると誰もが感心したものだ。

あの頑固な男を相手にするのは大変だろうに。

勿論とて彼の気持ちは分かっている。

だから彼の気持ちを汲んではやりたいが、このままではいずれ倒れるのは目に見えていた。

強引になるのは端から見ても限界が近いのが分かっていたから。

それは、毎日よく見ている彼女だからこそ分かった事だ。

 

「土方さん、少しでいいから休んでくださいって‥‥

私ちゃんと起こすから。」

「大丈夫だ。

無理だと思ったらちゃんと‥‥」

休むと言いかけたその足下がふらついた。

 

危ない。

 

誰かが叫んだ。

その瞬間、は走って、彼を支えるべく手を伸ばし、

 

しかし、

 

――パシン!!

 

「っ!?」

 

その手は払いのけられた。

土方自身によって。

その温もりが触れるか触れないかの所で。

 

「‥‥土方‥‥さん‥‥」

 

遠慮無くぱしりと叩かれた手をは呆然と見つめた。

そのまま壁に寄りかかった彼は、の方を見なかった。

故意に見ようとしなかった。

それがにも分かった。

ばたばたと近づいてきた斎藤や原田を見て、

「斎藤、悪いが少し手を貸してくれ。」

そんな言葉を口にする。

斎藤は短く「御意」と応え、その肩を彼へと貸した。

 

残された原田は、なんとも複雑な顔でを見る。

 

「大丈夫か?」

問いかけに、彼女は俯けていた顔を上げて、

「大丈夫。」

にっこりと笑ってみせる。

それから苦笑して、

「土方さん、ご機嫌斜めみたいですね。」

ぺろっと舌を出しておどけてみせる。

その瞳の奥には感情が無くて‥‥彼女が必死に繕っているのだと原田には分かった。

それが口惜しいと思うが、彼には何をしてやることも出来ない。

 

一体、何があったというのだろう?

 

突然、

土方の態度が‥‥変わった。

 

「‥‥」

 

はそっと瞳を伏せた。

その顔に一瞬だけ滲む、

 

ただ1人、

に対してだけ――

 

泣きだしそうな、悲しそうな色。

 

 

 

「おかえり。」

 

千鶴が沖田の部屋を訪れると、音もなく襖が開いた。

驚いてしまって思わず「きゃ!?」と声が出そうになるのを寸前で止め、彼女は沖田を驚きの表情で見つめる。

今日は随分と調子がいいらしく、顔色が良かった。

「おかえり」

ともう一度言われ、部屋へと促される。

「ただいま戻りました」

千鶴は笑みを漏らして、部屋へと入ると、布団の傍へと腰を下ろした。

しかし、沖田は布団には横にならず彼女と並んで座る。

「沖田さん?」

「今日、山崎君と出かけてたんだって?」

咎めるような口調で、思わずすいませんと口から言葉が出る。

謝った彼女はきっと、こちらの意図に気付いていない。

沖田はふんっと鼻を鳴らして、更に不機嫌なのを露わにした。

「で?」

「‥‥でって‥‥言うのは?」

何の事かと視線を向けると、沖田は憮然とした面もちで続ける。

「何してきたの?」

「何‥‥って‥‥」

千鶴は一瞬口ごもった。

 

羅刹の事を調べてきた。

等と彼に言ってもいいのだろうか。

確かに彼は「自分が羅刹になったこと」に関しては、嫌悪していないらしい。

例え化け物になろうが戦う力を得られた事を前向きにとらえているようだ。

しかし、だからといってこちらがこそこそと隠れて調べていたとなるとあまりいい気分はしないだろう。

しかも自分が調べていたのは羅刹の‥‥血に狂った時の対処法だ。

そんな事を言えば、

「僕が血に狂うとでも思ってるの?」

とか冷たく言われそうだ。

 

もしくは、

「余計なお世話」

か。

 

どちらにせよあまりいい反応はしてくれなさそうである。

 

「‥‥」

口を噤む千鶴に、沖田はますます不機嫌そうな顔になった。

「言えないような事‥‥なんだ?」

ふーん、あっそう、と呟き、

「それじゃ、山崎君に聞いてくるからいいよ。」

と言って立ち上がろうとする。

 

「ま、待って下さい!」

それはまずい。

山崎は今頃部屋で休んでいる。

薫のせいで頭を打って‥‥例えたんこぶ一つとは言え、具合が悪そうだったのを思い出した。

手伝ってもらったばかりか怪我まで負わせ‥‥おまけに、沖田にたたき起こされるなんてそんな事になったら

申し訳なさすぎる。

 

「い、言います!」

言いますからと千鶴はとうとう白状した。

立ち上がり掛けた沖田はそれはそれで不満げな顔で、

「なに?」

言葉を促す。

視線がざっくりと突き刺さる。

どうしてこんな不機嫌になっているのだろう。

まだ何も言ってないのに。

ああ、やっぱり黙って出ていったのが悪かったか。

千鶴はこれからまた更に彼の機嫌が悪化するであろう事を想像して、一つ、溜息を零した。

 

「その‥‥調べに戻っていたんです。」

「なにを?」

「羅刹について‥‥」

千鶴の言葉に沖田はひょいと片眉を跳ね上げた。

「父が‥‥羅刹の研究をしていたと言うのを思い出したので。」

「‥‥もしかして、家に?」

「はい」

頷いた。

自分の家に戻れば何か手がかりはあるのではないかと思って出掛けたのだと千鶴は言った。

それに山崎についてきてもらったのだと。

 

「‥‥」

沖田ははぁ、と溜息を零した。

「あ、あの、余計なお世話っていうのは分かってるんです!」

千鶴は慌てて言った。

「でも、何かお役に立てる事があるんじゃないかって思って‥‥」

何でもいいから何か。

彼を助けられる何かがあるんじゃないかと思って。

 

「お節介。」

 

そんな千鶴に沖田は想像通りの言葉を言ってのける。

お節介と言われた千鶴は「う」と呻いて、

「‥‥すいません。」

申し訳なさそうな顔で俯いてしまった。

 

そんな彼女に沖田は苦笑を漏らして、

「誰も悪いなんて言ってないよ。」

そう言ってくしゃっとその小さな頭を撫でた。

 

確かに千鶴はお節介だ。

ろくに力もないくせに、無茶な事をしてのける向こう見ずなお節介。

 

最初は‥‥確かに、そのお節介ぶりは鬱陶しいと思っていたけど、

「‥‥沖田さん?」

このごろは悪くないと沖田は思っている。

それが彼女の優しさだと分かっているからかもしれない。

 

「てっきり二人で出掛けちゃうから、僕を放って土方さん所に戻っちゃったのかと思ったよ。」

「そんなわけ‥‥」

沖田の言葉に千鶴が反論に口を開く。

「分かってる。」

にやりと笑うと、その頭をぽんと叩いて離す。

山崎と二人で出かけた事は面白くはないが‥‥まあ、その理由が『自分のため』であるなら許してあげよう。

 

男はそんな事を思い、ついで何か分かったの?と訊ねようとした。

その時、

 

「ぐっ!?」

 

腹の底から一気に、黒いものが這い上がってくる。

それはあっという間に彼を飲み込んで、痛みと、そして乾きを与えた。

 

「ぐ、ぁあっ!!」

「沖田さん!?」

苦しげに呻いたかと思うと、彼は胸を掻きむしった。

「っ!?」

その彼の容貌が、見る間に変わっていく。

茶色の髪が白に‥‥

苦しげに細められた目が、血のような赤に。

 

羅刹の姿に。

 

「‥‥沖田、さん‥‥」

一瞬、人ならざるその姿に気圧される。

次いで聞こえた苦しげなうめき声に我に返り、千鶴は彼の身体を支えて呼びかけた。

「沖田さん!大丈夫ですか!?」

「が‥‥はっ‥‥」

喉を押さえて彼はうずくまっている。

苦しそうだった。

 

「すぐにっ‥‥治まるから‥‥」

 

苦しげな呼吸の下、沖田はそう言って苦笑を浮かべてみせる。

その口ぶりは、何度もその苦しみを経験しているかのように聞こえた。

いや、実際彼は何度もその苦しみを経験していたのだ。

 

これが‥‥羅刹の発作だ。

 

千鶴は唇を噛んでそれを見る。

そして、薫の言葉を思い出して、彼に言った。

 

「沖田さん、血が‥‥欲しいんですか?」

 

血を飲めば、あっという間に楽になる。

 

薫は言った。

その言葉を本当に信じてもいいのか分からないけれど、彼が血を求めているのは分かった。

隊士達や山南と同じだ。

 

でも、

 

「欲しくなんかない!!」

血を差し出そうとする千鶴に沖田は怒鳴るように即答した。

「血は‥‥飲みたく、ない。」

ぜえぜえと荒い呼吸の元、彼は力無く首を振って見せた。

「どうして?

楽になるのにっ‥‥」

千鶴が必死に言うと、沖田はいやだともう一度消え入りそうな声で呟く。

「血は‥‥飲みたくないっ」

「沖田さん。」

「僕は狂いたくない!」

彼は怯えたような眼差しで、叫んだ。

 

沖田は嫌だった。

血を飲む事が。

血を飲んでおかしくなる隊士を見てきたから。

彼らは獣だった。

血を啜り、もう何も分からなくなった獣だった。

近付く全てを殺し、血を啜る化け物だったのだ。

 

自分がそんな事になったら、

 

「近藤さんの為に‥‥戦えないっ」

それだけは嫌だった。

自分が存在する理由は彼のために、戦う事。

変若水を飲んだのも‥‥近藤の役に立つためだった。

だから、

それさえ出来なくなったら自分は‥‥今度こそ本当に死ぬ。

生きながらにして死ぬ事になる。

だから。

だから‥‥

 

「ずっと‥‥耐えていたんですか?」

千鶴は痛みに低く呻く男をじっと見つめ、彼よりもずっと痛々しげな顔で呟く。

彼はずっと耐えていたのだろうか。

その痛みを苦しみを、恐怖を。

ただの一人で。

誰にも言わず。

 

「‥‥」

千鶴は痛みに低く呻く男をじっと見つめた。

 

時折痛みを堪えるように手足に力を入れ、大きな身体を丸めていた。

吐き出す吐息は熱く、表情は見る見るうちに青ざめていく。

 

千鶴は唇を噛んだ。

そうして、

 

「‥‥沖田さん。」

ことさら優しい声で呼びかけた。

触れた瞬間、びくりと大きな身体が震えた。

いつもの逆だ。

千鶴はそれを不思議に思いながら、袂から薬包を取りだした。

「そ、れは?」

「お薬です。

父が‥‥羅刹に効く薬を研究していたらしくて‥‥」

それを作ってきましたと千鶴は言う。

沖田の手を取り、薬包を乗せると、ただ、と瞳を伏せる。

「‥‥効くかどうかは、分かりません。」

まだ誰にも試していない。

彼を実験台にするようで忍びないのだが、解決策は今のところこれしかない。

血を飲む事を拒む‥‥彼の意志を尊重するならば。

 

「書かれた通りには作ってます。」

人体に悪影響がない事は、山崎からも保証された。

だから‥‥大丈夫なはず。

 

不安げな彼女に対し、沖田はそっと包みを持ち上げた。

 

「うん、飲むよ。」

「本当に!?」

千鶴は思わず驚きの声を上げた。

「勧めてくれたのは君なのに?」

彼は顔を歪めて笑い、薬包を開けた。

独特なにおいに一瞬だけ顔を顰める。

「でも‥‥保証は‥‥」

「大丈夫」

沖田はきっぱりと言ってのける。

 

赤く血走ったようなそれを優しく細めて、

 

「君が僕のために作ったなら‥‥きっと大丈夫だよ。」

 

なんの保証もない言葉を口にして、

彼は迷うことなく白い粉を口へと流し込んだ。