十日ほど屯所に戻らなかったが頬を真っ赤に腫らせて帰ってきた。
  明らかに誰かに殴られた痕だと分かった。
  けれど、誰に何を聞かれてもは痛々しい口元を歪めて「なんでもない」と笑った。



  会津藩お預かりになったとはいえ、相変わらず給金は出ず、厳しい毎日を強いられていた。
  一汁一菜あれば良いという毎日の食事。着物にもほころびが見え始め、だがそれを新しいものに買い換える余裕さえない。
  それをあざ笑うように芹沢は毎日のように新見と色町に入り浸って豪遊三昧。
  羨ましいとにぼしを突く永倉らを横目に、土方はどこが羨ましいものかと内心で吐き捨てた。
  あんな甘いにおいばかりが充満した所、願い下げである。
  そう‥‥思っていた男が、
  「漸く来てくれはった」
  今宵は色町に。
  甘ったるい、強請るような声で近づいてくる花魁を前に、一人酒をあおっていた。
  女は菖蒲という、最近売れっ子になってきた花魁だ。
  目元の黒子が印象的な、強気な美人という感じだろうか。
  彼女はつり目がちな目元をすいと細めて笑うと、流れるような所作で近づいてきて、男の隣に腰を下ろす。
  「まずは、一献」
  と白く細い手を伸ばして彼の手から銚子を奪う。
  艶やかに微笑みながら「さ」と勧めれば、男は悪いなと言って盃を差し出した。
  それをぐいと一気に煽るかと思いきや、一口をつけながらちらりと切れ長の瞳でこちらを見下ろしてくる。
  浪士組というのはあまり良い噂は聞かない。
  ましてや彼らのような田舎者になど興味もないけれど、この男にだけは別だ。
  仲間内で噂になっている一番の色男。
  どんな男かと思えば、彼女が思っていたよりずっと‥‥いい男だ。
  こんな男に指名されたとあれば妓女としても鼻が高いと言うもの。
  確か彼は他の花魁からも密かに慕われていたはず。
  最近はあまり立ち寄ってくれなくなったと彼女らがぼやいていたのを思い出し、菖蒲は内心でにやりとほくそ笑む。
  この男が自分に骨抜きになれば、彼女の名は更に売れるというもの。
  自分が頂点に上り詰めるにはこの男が必要だ。
  いや、それ以前に、
  (この男が欲しい)
  菖蒲はこの男が欲しいと思った。
  見栄や欲の為だけではなく、女として。
  そう、惚れたのだ。この男に。
  「うち、ずっと土方はんに指名してもらいとうて、待っとりましたんえ」
  「そりゃあ、光栄なこった」
  ふ、と男の口元が歪む。
  笑うとぞくりとするほど、男は妖艶で、美しい。
  姉さんたちが夢中になるのは納得できるというものだ。
  「俺も、実はおまえに会いてえって思ってたんだ」
  男の言葉にどきんっと胸が高鳴る。
  思わずと言う風に口元が笑みに歪んでしまうのも止められず、菖蒲は「ほんまに?」と訊ねていた。
  ああ、と土方は頷くと手に持っていた盃を下ろし、そのしなやかな指を女の顎へとそっと掛けてきた。
  無骨な男の指はただ顎をそっと撫でただけなのだが、彼の纏う空気があまりに艶めかしいからなのかなんとも官能的な遊
  技でもされている気分になる。
  あ、と甘ったるい吐息を漏らし菖蒲は瞳を熱に揺らす。
  上目に見上げる彼女の瞳が妓女のそれからただの女のそれへと変わっていき、

  しゃらりと‥‥黒髪に挿した赤い石をつけた簪が、揺れた。


  「土方、はん」
  はぁ、と荒い吐息の中、女が自分を呼んでいる。
  花魁はあまり客に肌を許さない。旦那でもなければ当然の事、今日会ったばかりの客になど売れっ子の花魁ならまず、
  皆無だ。
  それでも菖蒲は隣室に床も用意せず、豪奢な着物を布団代わりに男に肌を曝していた。
  紫紺のそれが肌をなぞるように見つめるたび、言いしれぬ歓喜と興奮が身体の底からわき起こる。
  もっともっとと濡れた視線を向ければ突然にやりと意地悪く笑った男にひっくり返され、ふくらみを後ろから包まれた。
  そうしながら項をねっとりと舌を這わされ、菖蒲は気付けば「早く」と強請っていた。
  「もう、堪忍してっ」
  「なにが、だ?」
  掠れた声が鼓膜を嬲る。
  それさえも菖蒲を高ぶらせ、まだ触れられてもいないのに粗相でもしてしまったように下肢を濡らす始末に、彼女は濡れ
  た声で乞うた。
  「早う、中、挿れてっ」
  「なんだよ、まだ始まったばかりだろう?」
  言葉に返ってくるのは意地の悪い男の声。
  くつりと喉を震わして笑うその声にはまだ余裕があり、巧みな指使いで更に菖蒲を追い立ててくる。
  菖蒲は悲鳴を喉の奥で漏らした。
  これまでまぐわった男の誰よりも巧みで、彼女はあっという間に昇天してしまいそうだった。
  でもそれだけじゃ足りなくて、もっと身体の奥深くに彼を受け入れたくて、知らず腰を男のそこへとすり寄せれば、意地
  悪くかわされて身体を押さえつけられて耳元で囁かれる。
  「聞きたい事が、ある」
  聞きたい事など後にして欲しい。
  それよりも早く一つに、この熱と疼きを収めて欲しい。
  そう菖蒲は訴えるけれど男は聞いてくれない。
  質問に答えない限り、気持ちの良い事はお預け‥‥のようで、菖蒲は急くような声で何が聞きたいのかと訊ねた。
  「おまえと同じ屋形で、最近売れ始めた花魁がいるだろう?」
  問いにこくこくと菖蒲は頷く。
  つい最近、彼女が身を置く鳳という屋形にやってきた妓女が一人いる。
  遣り手が気に入ったという理由だけでもてはやされている、京言葉もまともに使えない花魁だ。
  世渡り上手なのか、他の姉さん連中とは上手くやっているようだが、菖蒲だけはあの女とはどうも馬が合わない。
  あのつんとしたお高くとまった所が大嫌いだった。
  何より忌々しいのは、彼女の客がこぞってあの小娘に取られてしまった事。
  きっと遣り手を丸め込んだように色目を使ったに違いない。
  あの綺麗な顔で迫られれば、馬鹿な男はころりと落ちてしまうだろう。
  だから、
  「あの子はもう、おしまいや」
  男の言葉を遮り、菖蒲は口元に勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
  思い出してしまったのだ。
  「生意気が過ぎるよって、うちが指導したったんどす」
  あの綺麗な顔を歪ませた時の事を。
  なんという快感、なんという優越感。
  菖蒲は身体が震えるのを押さえられない。
  笑い出してさえしまいそうなのを、喉の奥で堪えながら、そんな事よりもと媚びた声を上げて男に先を促す。
  その瞬間だった。

  「なるほど、やっぱりてめえか」

  まるで情事の最中とは思えぬ、冷たい声だった。
  菖蒲は幻聴でも聞いただろうかと視線を向ければ、先程まで優しく自分を見ていたその男の瞳には底冷えするほど冷たい
  色が浮かんでいた。
  甘さなど微塵も残さない、冷たい、氷のような色に。
  「土方‥‥はん?」
  豹変した男の様子に菖蒲は戸惑いと恐れの混じった色を浮かべる。
  そんな彼女を土方は冷たく見下ろしたまま、愛撫していた手をするりと上へと持ち上げて、
  「っ!?」
  強く、着物の上に彼女の頭を押さえつけた。
  抵抗したがびくともしない。大きな手にそのまま握り潰されてしまいそうで菖蒲はひぃっと悲鳴を上げる。今更のように
  彼が野蛮な浪士組の一人だったと思い出した。あの、芹沢と同じたぐいの人間なのだと。
  だが、違う。
  この男はあの男よりも‥‥ある意味では厄介だ。
  「売れっ子花魁がどんな女かと思ったが、所詮この程度か。てめえ目当てに来る男はとんだ節穴みてえだな」
  嘲りの言葉を吐きかけながら土方は更に押さえつける手に力を込めた。
  菖蒲はひぃひぃと喚きながら、涙と白粉と紅で艶やかな着物を汚していく。
  「別にあいつを気に入ろうが気に入るまいがどうだっていい」
  誰にだって好かれる人間などいないし、誰の事も愛せる人間もいない。
  だが、

  「俺のもんを傷つけようってんなら、容赦はしねえぞ」

  容赦しないというのが、どういう事なのか。
  視線だけでくびり殺してしまいそうな鋭い眼光に、菖蒲は恐怖のあまりに失神してしまうのだった。



  「あ、お帰んなさい」
  自室に戻ると何故かそこにが居た。
  思わずぎくりと身体を強張らせ、自分はにおっていないだろうかと
  誰にも見られないように裏戸から入ってきたというのに、早々に見つかって土方はびくっと肩を震わせる。
  見れば闇の中、がちょこんと上がり框に腰を下ろして‥‥
  どうやら土方の事を待っていたらしい。
  「遅かったですね」
  「‥‥あ、ああ」
  何処へ行ってたんですか? という問いに思わず言いよどむ。
  ちょっとなと誤魔化して土間を上がると、ふわりと揺れる空気に酒と白粉のにおいを感じては顔を僅かに顰めつつ、
  口を開いた。
  「土方さんが色町に出掛けるなんて珍しい」
  敢えて口にしたのは、がそのにおいを嫌っているからだ。
  甘ったるいそれで彼が汚されたような気がするから。だから、は彼があの場に行く事を望まない。止めて欲しいとは
  言えないので、とりあえず自分の気持ちだけは告げておく。
  「‥‥酒を、飲んでただけだ」
  なんとなく咎められた気がして言い訳を口にすれば、は苦笑を浮かべた。
  「分かってます」
  それは信じていると言いたいのか、それとも騙されてあげるよという事なのか。
  恐らく前者なのだろうけれどそのつもりはなくとも女に触れていたという事実に疚しさが募り、土方は顔を顰めると舌打
  ちを一つし、持っていたそれをおら、と押しつけて横を通り過ぎていく。
  「え? あ」
  しゃら、と手の中で鳴ったのは赤い石がついた簪だった。
  「おまえの、だろ」
  菖蒲の髪からもぎ取ったそれは、土方の姉がせめてもの餞別にとに持たせてくれたものだった。
  恐らく菖蒲に殴られた時に簪も奪われたのだろう。
  折角のぶから貰ったものだけど、いざこざを起こすわけにもいくまいとは自分が上にのし上がるまで取り戻すのは待
  つつもりだった。それが、ここにある。
  「‥‥まさか、土方さん」
  「勘違いすんじゃねえ。落ちてたから拾っただけだ」
  菖蒲の頭を押さえつけた時に、しゃらりと落ちたのを拾ってきただけだというのは心の内に留めておいて、一方的に言っ
  てその場を後にしようとする。
  そんな彼の背中に、

  「ありがとうございます」

  少し、照れたの声が聞こえた。
  振り返れば困ったような、でも嬉しそうな顔をしている彼女が居る事だろう。
  急な出費のお陰で明日もにぼし一匹しか出ない事だろうが、ひもじい思いをしてでも取り返して良かった。男はそう、思
  うのだった。



  噂の真相



  女の敵、は実はこういう裏があったのです。
  だけど、その翌日菖蒲によって酷い噂になったという。